大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和55年(刑わ)3587号 判決

被告人 野上繁

昭二一・一一・九生 土工

主文

被告人を懲役一年に処する。

未決勾留日数中六五日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五五年一一月五日午後零時五二分ころ、東京都港区港南二丁目一番所在国鉄品川駅第一ホーム上を同ホーム中央付近から二番線側ホーム端付近に向けて歩行していたものであるが、右第一ホーム(山手線)とその東側の第二ホーム(京浜東北線)との間には、第一ホーム東側の二番線に山手線外廻り(渋谷駅方面)の軌道が第二ホーム西側の三番線に京浜東北線北行(東京駅方面)の軌道がそれぞれ隣接して敷設され、右両ホームの軌道敷からの高さは各約一・一六メートルで、右両ホームの間隔は約六・七メートルあるが、右両線に電車が同時に進入した時の各ホーム側壁と電車側面との間隔は各約一三センチメートルで、両電車の側面の間隔は約一メートルしかなく、当時、右両線路は各電車が短時間隔で走行しているうえ、右第一ホームの二番線側ホーム上には各乗車位置付近に五ないし六名程度の乗客が電車の到着を待つていて、いずれも背中をホーム中央側にして視線を線路側に向けて佇立しており、これら乗客の身体に衝突すれば、乗客が線路上に落下し、入線して来た電車と衝突するなどして死傷事故を惹起する危険の大きいことが明らかであつたから、被告人としては、同ホーム端に佇立している乗客の有無、動静に十分注意し、これら乗客に衝突しないように慎重に行動して事故の発生を未然に防止すべき注意義務があるのに、これを怠り、右二番線に山手線外廻り電車が入線間近となつた際、右第一ホームの二番線側ホーム端付近の乗客の有無等に注意を払うことなく、同ホーム中央付近から二番線側ホーム端付近に向けて、飲酒酩酊している状態で、しかもズボンのポケツトに両手をつつ込み上体をやや前かがみにした姿勢のままで歩行し、同ホーム端から約一メートル離れて佇立し同電車の到着を待つていた吉川弘子(当時四三年)の背部に自己の右肩を勢いよく衝突させた重大な過失により、同女を二番線路上に落下させ、同女をして同線路上を接近して来た右電車を避けるため三番線路内に逃避することを余儀なくさせ、折から同線路上を走行して来た京浜東北線北行(大宮行)電車に激突させ、即時同所において、同女を頭部、胸部挫滅等の傷害により死亡させたものである。

(証拠の標目)(略)

(弁護人の主張に対する判断)

一  重過失について

弁護人は、本件は重過失致死罪ではなく、単純な過失致死罪をもつて論ずべき事犯である、と主張する。

しかし、前掲関係各証拠によると、国鉄品川駅第一ホーム(山手線)と第二ホーム(京浜東北線)との間には第一ホーム東側の二番線に山手線外廻り(渋谷駅方面)の軌道が、第二ホーム西側の三番線に京浜東北線北行(東京駅方面)の軌道がそれぞれ隣接して敷設されていること、右両ホームの軌道敷からの高さは各約一・一六メートルで、右両ホームの間隔は約六・七メートルであること、軌道敷内には右両線ともにコンクリート製枕木が設置されていて、枕木と枕木との間及び両軌道の間には玉砂利が敷かれ、両軌道の間のほぼ中央には信号ケーブルを収納する幅約一二センチメートルのコンクリート製四角箱が軌道と平行して埋設されていること、右両線に電車が同時に進入した時の各ホーム側壁と電車側面との間隔は各約一三センチメートルで、両電車の側面の間隔は約一メートルしかなかつたこと、当時、二番線の山手線外廻り電車とこれに隣接する三番線の京浜東北線北行電車はそれぞれ約五分間隔で運転されていて、両電車の到着時刻の時差間隔は約一〇秒ないし一分四〇秒であつたこと、また第一ホームの二番線側ホーム上には、各乗車位置付近に五ないし六名程度の乗客が電車の到着を待つていて、いずれも背中をホーム中央側にして視線を線路側に向けて佇立していたこと、ホーム上には端から中央に向かつて約〇・六八メートルの位置に危険注意を標示する白タイルが約〇・五八メートルの間隔でホームに平行して埋め込まれていることがそれぞれ認められる。

右認定の各事実を総合すれば、右第一ホームと第二ホームとの間の軌道敷上は、二番線の山手線外廻り電車と三番線の京浜東北線北行電車とが短時間内に頻繁に往来運転されている状況にあつたので、人がホームから線路上に落下した場合、間近に進入して来た電車との衝突を避けるための退避行動、救助活動は困難であつて、電車に衝突、轢過されるなどして死傷事故を惹起する危険性が極めて大きく、かかる重大な結果が発生することは容易に予見し得るところであり、しかも電車待ちをしている乗客は、背中をホーム中央側にして視線を線路側に向けて、後方から他人に衝突されることなど全く予想せず無防備の状態にあつたのであるから、何人もホーム端を歩行する際には、同所に佇立している乗客の有無、動静に十分注意して他の乗客に衝突しないよう慎重に行動すべき注意義務があることは明らかであつて、かかる注意義務に違反した過失は、刑法二一一条後段に規定する「重大ナル過失」に該当するものと認めるのが相当であるから、弁護人の前記主張は採用できない。

二  因果関係について

弁護人は、被告人の衝突による本件被害者の落下と同被害者の死亡との間には相当因果関係がない、と主張する。

なるほど、前記認定のとおり、二番線の山手線外廻り電車と三番線の京浜東北線北行電車とが同時に進入した場合でも、両電車の側面の間隔は約一メートル程あつたのであるから、被害者が同所にうずくまるなり、体を伏せるなりの処置を採つていれば、本件事故を回避し得たであろうことは認められなくはないが、しかし、前掲関係各証拠によると、本件被害者は背後から突然衝突されて第一ホームから二番線の線路上に落下したこと、そして折から同線路上を山手線外廻り電車が時速約六五キロメートルの速度で約一五〇メートル付近まで接近していて、他方三番線の線路上を京浜東北線北行電車が時速約六五キロメートルの速度で約六〇メートル付近まで接近していたこと、被害者は落下後一瞬第一ホームを見たが、右山手線外廻り電車が接近して来るのに気を取られ、急遽これとの衝突を回避するため二番線路を横断して三番線路との中間付近に立ち入つたが、同線路上を右京浜東北線北行電車が接近していることに気付かず、更に同線路内に逃避した直後に同電車に衝突、轢過されたこと被害者が落下してから同電車に衝突するまでの時間は僅か数秒にすぎなかつたことが認められ、右事実によれば被害者は、突然背後から不意に衝突されてホームから線路上に落下させられて、思いもかけぬ事態に遭遇して気も動転し狼狽していたであろうから、冷静、的確に状況を把握して二番線と三番線との中間にうずくまるなり、体を伏せるなどの処置に出ることを期待することは困難であり、本件被害者が前記認定の行動に出たことは無理もないことであつて、以上の如き具体的状況下においては、不意に背後から衝突されて線路上に落下した被害者が前記認定のような行動に出ることは経験則上当然予想し得ることであることに徴してみると、被告人の衝突による本件被害者の落下と同被害者の死亡との間には相当因果関係があることを肯定することができるので、弁護人の前記主張は採用できない。

三  責任能力について

弁護人は、被告人が本件犯行当時飲酒酩酊のため心神喪失ないし心神耗弱の状態にあつた、と主張する。

そこで、検討するに、(証拠略)によると、次のような各事実を認定することができる。

(一)  被告人は、仕事に出る日は、朝家を出る前にウイスキーをコツプ一杯位、現場でポケツトウイスキー一本か日本酒をコツプ二杯位、帰宅後就寝前にウイスキーをコツプ二杯位を飲み、仕事に出ない日は、ウイスキー七二〇ミリリツトルびん一本位を飲む状況にあり、これが被告人の日頃の飲酒量であつて、飲酒しないと手が震えるなどアルコール中毒者のような症状を呈することもあるが、これまでにアルコールが原因の病気で入院したことはないこと。

(二)  本件事故発生の前日である昭和五五年一一月四日、被告人は、日雇の仕事に出ての帰途にポケツトウイスキー一本を買つてこれを飲み、更に酒屋でウイスキー七二〇ミリリツトルびん一本を購入して持ち帰り、自宅でその半分位を飲酒して午後一一時ころ就寝したこと、その際被告人は、同年一〇月二二日渋谷の鹿島建設渋谷大和ビル作業場で作業中に負傷した事故があつたことから、実弟の昇一に対し、右事故の労災補償金の話をするため翌五日に出掛けるつもりであることを話していること。

(三)  本件事故発生の日である同年一一月五日、被告人は、早朝目覚めてラジオを聴きながら、前日のウイスキーの残り半分位を水割りにして飲んだ後、着替えをして午前八時ころ自宅を出た。その時被告人は、作業着を自宅に置き、国民健康保険被保険者証をわざわざ持つて出掛けていること。

右事実及び後記認定のように右保険証が国鉄渋谷駅に遺留されていた事実などに徴して、被告人は同日仕事を休み、前記労災補償金の話をしに渋谷に行く目的で自宅を出たことが推認されること。

(四)  被告人は、自宅を出た以降本件事故発生後警察官に腕を捕られ自動車に乗せられるまでの自己の行動を一切記憶していないこと。

(五)  被告人は、同日午前九時ころまでの間に国鉄池袋駅に到着し、同駅中央口の乗車券自動券売機で一二〇円区間の切符を購入していること、池袋・渋谷間の運賃は一二〇円であること、被告人の前記保険証が同日午後一時ころ国鉄渋谷駅山手線内廻り(品川駅方面)ホーム上に遺留されていたこと。

(六)  被告人は、国鉄品川駅第一ホームの二番線に山手線外廻り電車が入線間近となつた時点において、同ホーム中央付近から二番線側ホーム端に向かつて同線路と直角方向に、ズボンのポケツトに両手をつつ込み上体をやや前かがみにした姿勢でよろよろした足取りで歩行し、同所付近に佇立して電車の到着を待つていた乗客稲本正之、同真田珠樹の両名には次々と衝突しているが、その傍にあつた鉄柱を避けてこれに強く衝突することもなく歩行したうえ、被告人に衝突された被害者は線路上に落下しているにも拘らず、被告人は落下せずにホーム上に立ち止まつていること。

(七)  本件事故発生直後被告人は、鉄柱にもたれかかるようにしていたが、前記稲本が被告人に「あなたがぶつかつたんですね。」と言つたのに対して何も答えず、表情も変えなかつたこと。

(八)  被告人は、右稲本の通報により現場に臨場した鉄道公安職員から東京鉄道公安室品川派出所に同行を求められ、同日午後一時一〇分ころ同所において事情聴取を受けた際、飲酒酩酊のため運動失調の症状を呈したり、跡切跡切の応答ではあつたが、鉄道公安職員の質問に対し、自己の住所、氏名、生年月日、電話番号などをほぼ正確に答え、更に乱雑ではあるが、自己の名前をボールペンで「繁」と記載し、その後同日午後二時三〇分ころ同所において、警察官から取調べを受けた際にも、自己の本籍、住所、氏名、生年月日、職業などをほぼ正確に供述していること。

(九)  同日午後三時五分ころ同所において実施されたアルコール検知管による呼気検査の結果は、被告人の呼気一リツトル中のアルコール濃度が一・〇ミリグラムであつたこと、その際被告人は、左右にゆれる異常歩行があつたが、一〇秒間直立することができて、「その日の朝自宅でウイスキー小びん一本を水割り二杯にして飲んだ」などと応答していること。

(一〇)  医師徳井達司は、被告人が精神病状態にはなく、被告人の本件犯行当時の飲酒酩酊状態についても、いわゆる病的酩酊の状態ではなくて中等度の普通酩酊の状態にあつたと診断していること。

以上認定の各事実を総合して判断すれば、被告人は、本件犯行当時、飲酒のため酩酊状態にあつたことが認められ、日頃から多量に飲酒する酒精嗜癖を有していて、約八時間にわたる自己の行動等について逆行性健忘が存するほか、本件事故発生直後の被告人の態度に感情的動揺が見受けられず、その他本件事故前後の被告人の挙動などに照らすと、かなりの程度深く酩酊していたことが窺われる。

しかしながら、被告人の自宅を出てから国鉄渋谷駅に至る行動は、労災補償金の話合いのため渋谷に行くという被告人の当初有していた目的に向かつてなされているものであり、午前九時前後のいわゆるラツシユ時に電車の乗り換え、乗降等を無事に行つて目的とした駅に到着することができていることなどからみると、被告人は外界との意識上の隔絶が生ずる程度まで深く酩酊していたわけではないことが明らかであること、本件事故直前においても、被告人は入線して来る電車に乗車するため電車乗降口付近に待機する目的で歩行していたものと推認され、幻覚、幻聴、妄想などの異常症の発現は見当らないうえ、当時ホーム下の線路上に転落する危険を認識し、その転落を防止するため自己の行動を制禦する能力を有していたこと、被告人は、捜査及び公判の両過程を通じて、本件事故発生後前記品川派出所において事情聴取等を受けたことや、アルコール検知管による呼気検査を受けたことなどについて全く記憶していないと供述しているが、その際の被告人の前記応答状況等からみると、当時においても被告人の自己に対する見当識に障害はなかつたこと、被告人は当時病的酩酊の状態にはなく中等度の普通酩酊の状態にあつたことなどに徴してみると、被告人は、本件犯行当時、事物の是非善悪を弁識する能力及びその弁識に従つて行動する能力が全く欠如していた状態ではなく、また右能力が著しく減退していた状態でもなかつたものと認定するのが相当である。

従つて、弁護人の前記主張は採用できない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法二一一条後段、罰金等臨時措置法三条一項一号に該当するので、所定刑中懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役一年に処し、刑法二一条を適用して未決勾留日数中六五日を右刑に算入することとする。

(量刑の理由)

本件は、被告人が、白昼電車の頻繁に発着する国鉄の主要駅である品川駅ホームにおいて、飲酒酩酊の状態にあつたにも拘らずホーム端を歩行し、判示注意義務に違反して、電車の到着を待つていた被害者にその背後から勢いよく衝突して、被害者を線路上に落下させ、折から入線して来た電車に激突、轢死させた事案であつて、被告人の過失は極めて重大かつ悪質であり、しかも被告人の一方的過失によつて惹起されたもので、被害者には何ら責められるべき落度はなく、被害者を轢死させた結果は誠に悲惨かつ重大であつて、その遺族に与えた衝撃は測り知れない程深刻なものがあり、被告人側の遺族に対する慰籍の方途も十分ではなく、本件が社会に与えた不安も軽視できないこと、被告人は殆ど毎日朝からウイスキーを飲酒する酒精嗜癖を持ち、本件犯行を惹起するに至つた要因が被告人の右の如き飲酒癖にあつたことなどを考慮すると、被告人の刑事責任は重大であると言わなければならない。

被告人の責任能力が、前記のとおり心神喪失ないし心神耗弱の状態にはなかつたとはいえ、かなりの程度減退していたことが窺われること、被告人が自己の所為によつて被害者を死亡させるに至つたことを反省していること、被告人にはこれまでに前科前歴がないこと、その他被告人の年令、家庭環境等諸般の事情を十分斟酌考量しても、本件が刑の執行を猶予すべき事案であるとは認め難く、主文掲記程度の量刑が相当であると思料した。

そこで、主文のとおり判決する。

(裁判官 鈴木秀夫)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例